大判例

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東京高等裁判所 昭和46年(行コ)75号 判決

控訴人

東京都教育委員会

右代表者委員長

蝋山政道

右訴訟代理人弁護士

高瀬太郎

外八名

右指定代理人

萱野通則

外二名

被控訴人

別紙目録記載のとおり

(編注=別紙目録は省略、被控訴人は、長谷川正三外一〇八名)

右被控訴人ら

(但し、番号39金田和雄、49稲田健郎、88桑原三郎、111深見清を除く)

訴訟代理人弁護士

佐伯静治

外一四名

主文

原判決中第一審原告桑原三郎、同深見清の関係を除くその余の被控訴人らの部分を取消す。

右被控訴人らの請求を棄却する。

訴訟費用は、第一、二審とも右被控訴人らの負担とする。

第一審原告桑原三郎、同深見清の本件訴訟は同人らの死亡により終了した。

事実

控訴代理人は、本案前の主張として、「原判決を取消す。被控訴人らの本件訴を却下する。訴訟費用は第一、二審とも被控訴人らの負担とする。」旨の裁判を求め、本案につき、「原判決を取り消す。被控訴人らの請求を棄却する。訴訟費用は第一、二審とも被控訴人らの負担とする。」旨の裁判を求め、被控訴人ら(但し、後記被控訴人金田、稲田を除く)代理人は、「本件控訴を棄却する。控訴費用は控訴人の負担とする。」旨の裁判を求め、被控訴人金田和雄は適式の呼出を受けながら本件口頭弁論期日に出頭しないが原審における口頭弁論の結果によれば、「本件控訴を棄却する。」旨の裁判を求める趣旨であり、被控訴人稲田健郎は公示送達による呼出を受けたが、原審における口頭弁論の結果によれば「本件控訴を棄却する。」旨の裁判を求める趣旨である。

当事者双方の事実に関する主張及び証拠関係は、次に附加するほか原判決事実摘示のとおりであるからこれをここに引用する。

証拠として、〈以下略〉

理由

第一本件訴の適否

被控訴人ら(第一審原告桑原三郎、同深見清を除く、以下同じ)がいずれも原判決添付別紙第二の勤務学校らん記載のとおり東京都下の各公立小・中学校に勤務する教師(教員)であり、控訴人がいずれも昭和三三年七月一六日付で、被控訴人らに対しそれぞれ原判決添付別紙第二の処分らん記載のとおりの各懲戒処分(本件懲戒処分)をしたこと、その処分理由が原判決添付別紙第二の処分理由らん記載のとおりであること(右処分理由らん記載のA・Bは原判決添付別紙第三記載のA・Bに対応する)は当事者間に争いなく、右懲戒処分の取消を求める被控訴人らの本件訴の適否についての当裁判所の判断は原判決理由第一と同一であるから、これをここに引用する。すなわち控訴人の本案前の抗弁はいずれも理由がなく、本件訴は適法である。

第二被控訴人らの本訴請求に対する判断

一被控訴人らの身分、本件懲戒処分の存在及びその処分理由は前記のとおりで、当時被控訴人らの属した東京都教職員組合(都教組)の組織、本件争議行為の経過と態容、本件争議の規模とその影響、被控訴人らのした行為、これに対してした控訴人の懲戒における法令の適用についての当裁判所の判断は原判決理由第二の一及び二と同一であるからこれをここに引用する。

二本件懲戒処分の適否

1  地方公務員法(以下地公法という)三七条一項の争議行為禁止の合憲性

地公法三七条一項その他公務員の争議行為禁止の法律が勤労者の労働基本権を保障した憲法二八条に違反するかどうかは、久しく天下国論を二分して争われて来た。さきに最高裁判所はいわゆる全逓中郵事件(昭和四一年一〇月二六日大法廷判決・刑集二〇巻八号九〇一頁)、都教組事件(昭和四四年四月二日大法廷判決・刑集二三巻五号三〇五頁)、全司法事件(昭和四四年四月二日大法廷判決・刑集二三巻五号六八五頁)等の判決を通じて、公務員の争議行為を禁止する法律はいわゆる限定的解釈をほどこすことによってのみ憲法二八条に違反しないとすることができるとの基準を設定した。しかるに昭和四八年四月二五日いわゆる全農林事件大法廷判決(昭和四三年(あ)第二七八〇号刑集二七巻四号五四七頁)は、一転してそのような限定的解釈による基準を設けないでも国家公務員の争議行為を禁止する法律は、それ自体憲法に違反しないとし、さらに昭和五一年五月二一日いわゆる岩教組事件大法廷判決(昭和四四年(あ)第一二七五号裁判所時報六九〇号七頁)は、右全農林事件判決の論理を地方公務員に延長して、地公法三七条は憲法二八条に違反するものではないとし、この問題に終止符を打った。もとより説をなすのは自由であり、この判例自体を批判することも許されるであろう。しかし、最高裁判所のもつ判例統一の機能及び国家生活における法的安定の要請を思うとき、この最高裁判所大法廷判例の到達した結果は、今日実務上最大限の尊重を受けるべきことは肯定しなければならない。当裁判所もまた基本的にこれと同一に判断するものである。

思うに、もともと憲法二八条の労働基本権は、勤労者が個々にその労働力を使用者に供与するに当り、両者を対等のものとしてその自由に契約するところにまかせるならば、経済的に不平等の立場にあるものをあえて対等に扱うこととなり、経済上劣位にある勤労者の一方に過酷な契約となり易いところから、勤労者が団結し、団体交渉によつて使用者と実質的にも対等の立場を得、その交渉を有利にする手段として争議行為をすることを許容し、これを保障するのがその本旨である。それ故この労働基本権は本来の自由権の如く絶対的なものでなく、本質的に手段的なものである。従つてこの基本権は、一方において、勤労条件が勤労者と使用者の自由な契約によつて定められる場合に最もよく妥当し、契約自由のないところには当然には働く余地がないこととなるのであり、これが労働基本権に内在する制約である。さらに他方において、この基本権特に争議権は、その行使が常に必然的に憲法上保護されるべき他の法益ないし価値を害し、その程度がいちじるしいところではその行使が拘束されることもまた是認されなければならない。これが労働基本権のいわば外在的な制約である。わが国の今日の制度上、公務員の勤務条件はすべて法定され、契約自由にまかされるところがないところに公務員の地位の特殊性があり、その争議行為により常に必然的に公務の停廃をもたらし、勤労者を含む国民ないし地域住民全体の共同利益に影響を及ぼす意味において、その職務の公共性がある。そしてこの公務員の地位の特殊性と職務の公共性から、本来勤労条件維持確保の手段たる労働基本権が制約される限度において、その間の均衡を保ち、一般私企業の労働者との間に実質的公平を保障するため、いわゆる代償制度を存置する理由があるのである。

すなわち。地方公務員も憲法二八条の勤労者として同条による労働基本権の保障を受けるが、地方公共団体の住民全体の奉仕者として、実質的にはこれに対して労務提供義務を負うものであり、その勤務条件が、法律及び地方公共団体の議会の制定する条例によつて定められ、また、その給与が地方公共団体の税収等の財源によつてまかなわれるところから、専ら当該地方公共団体における政治的、財政的、社会的その他諸般の合理的な配慮によつて決定されるべきものである点において、地方公務員は国家公務員と同様の立場に置かれており、したがつてこの場合には、私企業における労働者の場合のように団体交渉による労働条件の決定という方式すなわち契約の自由が当然には妥当せず、争議権も、団体交渉の裏づけとしての本来の機能を発揮する余地に乏しく、かえつて議会における民主的な手続によつてされるべき勤務条件の決定に対して不当な圧力を加え、これをゆがめるおそれがあることも、前記全農材事件大法廷判決が国家公務員の場合について指摘するとおりであつて、ここに地方公務員の地位の特殊性がある。他方その職務たる労務の内容は、地方公共団体が地域住民に対して自ら負担する公務の遂行すなわち直接公共の利益のための活動の一環をなすものであつて、地方公務員が争議行為に及ぶときは直ちにこの公務の停廃を生じ、地方住民全体ないしは国民全体の共同利益に重大な影響を及ぼすか、又はそのおそれがある点において、国家公務員の場合と選ぶところはなく、ここにその職務の公共性をみるのである。それ故、地方公務員の労働基本権は、地方公務員を含む地方住民全体ないしは国民全体の共同利益のために、これと調和するように制限されることも、やむをえないところといわなければならない。

しかして、国家公務員の労働基本権が国民全体の共同利益のために制約を受ける場合においても、その間に均衡が保たれる必要があり、実質的公平を保障するため、右制約に見合う代償措置が講じられなければならないところ、国家公務員勤務関係における法制上の具体的措置を検討すれば国家公務員につき、その身分、任免、服務、給与その他に関する勤務条件についてその利益を保障するような定めがされていること、及び公務員による公正かつ妥当な勤務条件の享受を保障する手段としての人事院の存在とその職務権限を労働基本権制限の合憲性を肯定する一理由としうるので(前記全農林事件大法廷判決)、この点を地方公務員の場合についてみると、地公法上、地方公務員にもまた国家公務員の場合とほぼ同様な勤務条件に関する利益を保障する定めがされている(殊に給与については、地公法二四条ないし二六条など)ほか、人事院制度に対応するものとして、これと類似の性格をもち、かつ、これと同様の、又はこれに近い職務権限を有する人事委員会又は公平委員会の制度(同法七条ないし一二条)が設けられているのである。もつとも、詳細に両者を比較検討すると、人事委員会又は公平委員会、特に後者は、その構成及び職務権限上、公務員の勤務条件に関する利益の保護のための機能として、必ずしも常に人事院の場合ほど効果的な機能を実際に発揮しうるものと認められるかどうかにつき問題がないではないけれども、なお中立的な第三者的立場から公務員の勤務条件に関する利益を保障するための機構としての基本的構造をもち、かつ、必要な職務権限を与えられている(同法二六条、四七条、五〇条)点においては、人事院制度と本質的に異なるところはなく、その点において、制度上、地方公務員の労働基本権の制約に見合う代償措置としての一般的要件を満たしているものと認めることができるのである。

右の次第であるから、地公法三七条一項前段において地方公務員の争議行為を禁止し、かつ、同項後段が何人を問わずそれらの行為の遂行を共謀し、そそのかし、あおる等の行為をすることを禁止したとしても、地方住民全体ないし国民全体の共同利益のためやむをえない措置として、それ自体としては憲法二八条に違反するものではないといわなければならない。

被控訴人らは、地公法が地方公務員の勤務条件につき対等かつ自主的決定を否定することによつて労働基本権を否定するのを非難するが(被控訴人ら提出・陳述の昭和五〇年一月二三日付準備書面九六頁)、これは公務員の勤務条件法定制を労働基本権の保障からさかのぼつて違憲と主張すると同一に帰し、もとより採用しがたいところである。

2  本件争議行為と地公法三七条の適用

被控訴人らは、教育公務員(教員)の争議行為は地公法三七条の禁止する争議行為に当らないと主張する。しかしそのいうところは、前記全逓中郵事件判決の系列にある判例理論のいわゆる限定的解釈を前提とするものであつて、右理論を止揚した立場においては特に検討を必要とするものとは解されず、教育公務員の公立学校における授業放棄という形でなされる争議行為が、教員の地位の特殊性と職務の公共性と相容れないことはいうまでもなく、本来争議行為は団体交渉の手段であるため要求貫徹まで持続するのを本質とすることを考えると、それが一時的で回復の可能性に富むことをもつて教員の争議行為が地公法三七条の争議行為であるかどうかを決する前提とすることは不相当であり、その他にこれを別異に解さなければならない合理的理由はない。

次に被控訴人らは、被控訴人らのした本件争議行為は地公法三七条で禁止された争議行為に当らないと主張するけれども前記引用の原判決認定事実及び当事者間に争いない事実によれば、被控訴人らは昭和三三年四月二三日勤務評定規則の制定・実施の阻止を目的として、都教組傘下組合員たる公立小・中学校教員約三万名とともに結束して一斉体暇を名として全一日学校授業を放棄し、そのための行為を企て、又はその遂行を共謀し、そそのかし若しくはあおつたものであつて、地公法三七条で禁止された同盟罷業たる争議行為をし、又はその行為を企てるなどしたものに該当する。その目的が勤務評定阻止とはいえ、実質的には抗議の意思表示に過ぎず、それが年度のはじめに行われ、一日だけの一過性のものであり、職務の停廃によつてもたらされた授業の遅れが容易に回復されえたものであるかどうかは、右の行為が争議行為等を成立せしめるかどうかの判断には関係ないものというべきである。

3  地公法三七条一項違反と懲戒処分

被控訴人らは地公法三七条一項に違反しても懲戒処分の対象とならないと主張する。なるほど地公法三七条二項は一項の争議行為等禁止の規定に違反した場合の効果を特に規定しているものであつて、右一項違反の効果をさらに同法二九条一項一号にいう同法違反の場合として評価するのは不合理の如く見えないでもない。しかし、その立言の良否はともかく、右三七条二項にいう任命上又は雇用上の権利をもつて対抗することができないとは、まさに分限及び懲戒の問題において不利益をこうむることのあるべきことをいうものであつて、両者は別異のものとすることはできない。争議行為は本来団体行動としてなされるものであり、その行為を企てるなどの行為は通常争議行為に随伴するものであるとしても、地公法三七条一項は特にそれを禁止しているのであるから、これらの行為をした者が個人として地公法に違反したものとして懲戒処分の対象とされることは止むをえないところである。従つて被控訴人らが本件争議行為をしたことは、地公法二九条一項一号の懲戒事由にいう地公法の定めに違反した場合に該当することとなることは明らかである。

4  本件懲戒処分は懲戒権の濫用に当るか

本件懲戒処分は、地方公務員たる被控訴人らが地公法三七条の禁止する争議行為等をして同法に違反したことを理由としてなされたものであるところ、地方公務員の争議行為に対する懲戒処分は、一応任免権者である地方公共団体の合理的な裁量に任せられているけれども、もしその権限の行使がその裁量の基準となるべき事情の評価を誤り、もしくはその裁量の範囲を逸脱する等によつて懲戒権の濫用に当る場合は、違法としてその取消を免れないことはいうまでもない。よつて以下この点について検討する。

(一) 本件争議行為の目的

本件争議行為は、被控訴人らが控訴人の制定・実施する勤務評定規則に反対し、これを阻止する目的でなされたことは前記のとおりである。

地公法四〇条一項は任命権者は職員の執務について定期的に勤務成績の評定を行い、その評定の結果に応じた措置を講じなければならないと定めているところ、教育公務員については種々の事情からして昭和三一・二年ごろまでその実施が見送られて来た。昭和三一年地方教育行政の組織及び運営に関する法律(地教行法)が制定施行され、同法四六条によつて勤務成績評定の計画立案及び実施者の定めがなされるに及んで、控訴人は昭和三二年五月ころから東京都下の都立・区立及び市町村立各学校職員の勤務評定に関する規則案の検討に着手し、一方都道府県教育長連絡協議会においても、同年一〇月教職員の勤務評定に関する規則(勤評規則)の試案作成を申し合わせ、同年一二月には全国試案を作成し、同月二〇日これを公表するとともに、各都道府県教育委員会において昭和三三年四月をめどとして勤評規則を制定・実施することを申し合わせた。右全国試案が公表されるや、都教組の上部団体である日本教職員組合(日教組)はいち早く反対の態度を表明し、その制定・実施を阻止する旨を宣言した。

東京都の場合、全国試案を基礎にして実施する方針のもとに控訴人は都下区市町村各教育委員会教育長及び公立学校長ならびに都教組に対し右試案を送付するとともに、昭和三三年一月一三日区教育長、同月一四日市町村教育長、同月二〇日中学校長、同月二一日小学校長に対する各説明会を催し、都教組に対しては同年二月六日東京都高等学校職員組合と同時に説明会を開き、その後十数回にわたつて話合を続けたが、その納得を得るにいたらないまま昭和三三年四月二三日制定・実施した。すなわち東京都立学校及び区立学校職員の勤務成績の評定に関する規則(昭和三三年四月二三日東京都教育委員会規則九号、乙第一〇八号証)、東京都市町村学校職員の勤務成績の評定に関する規則(同年同月同日教育委員会規則一〇号、同号証)は、職員の勤務の評定につき、実施範囲、勤務評定の種類、実施時期、評定期間、評定者及び調整者、秘密保持、勤務評定書の効力、保管などの基本を定めるほか実施内容細目についてはすべて教育長に委任し、都教組のいう評価の客観的基準の有無については教育長が決定するところにより、実施された。

以上の事実は当事者間に争いない。そして、〈証拠略〉を総合すると、教員等の勤務評定は、昇任、採用試験の改善、特別昇格、監督者と教員等との意見の相違、不和による差別取扱いの防止、適正配置を基本とした人事異動、監督者の責任のある教員等に対する継続的観察記録などとして人事管理運営の基礎資料として使用されるものであることが認められる。

ところで憲法二六条は、すべての国民に対し、法律の定めるところに従い、その能力に応じてひとしく教育を受ける権利を保障した。国はこれに対応して教育基本法以下教育諸法を定め、これによりその責務を行うのである。すべて国民は健康で文化的な最低限度の生活を享有し、労働の権利を行使し、幸福を追及し、平和な国家及び社会の形成者として啓蒙された人間となるため、必要な知識、技能、教養を身につけるよう相当水準の教育を受ける権利を有するのであり、教育行政は国民全体に直接の責任を負い、教育の目的を遂行するに必要な諸条件の整備確立を目標として行うのであつて、そのためには国は絶えず学校その他の教育施設を完備・維持・経営し、これに資格・能力ある所要の教師を供給・配置するとともに、常時これをよき状態に保全するため適正な人事管理を行う必要のあることは明らかである。勤務評定制度はその目的に仕えるものであり、それ自体としては本来適法有効なものとして、その意義は認められなければならないものである。ただ当時この時期に、この制度を実施しようとするについては種々の問題点の存したことは否定できないところである。すなわち、従来勤務評定制度については科学的・実証的研究を殆ど缺き、依るべき先例・文献も乏しい状態であるのに、たまたま地教行法の制定施行により教育委員が従来の公選制から任命制に変つた直後、しかも愛媛県において県費不足を補う意図で教員の間に処遇の格差をつけるためにこれが実施・利用されたという好ましからざる出発を見たところで、卒然として強行されようとしたものであり、またその内容においても、評定の客観的基準と手続の保障がなく、本人に対する開示や不服申立の機会がない等の点で、識者の批判を受けていた。このような状況のもとで日教組がいち早く反対の態度を打ち出し、都教組が控訴人との十数回にわたる話合いのあと、結着のつかないままこれが制定・実施されるのに対し、これを阻止するためとしてなされた本件争議行為の目的は、必ずしも理解できないわけではない。特に教育委員の任命制と相まつて教員の管理・統制が一段ときびしくなり、かくては教育基本法一〇条にいわゆる教育に対する不当な支配をも招きかねないとの受けとめ方は、一応自然なものがあつたといいえよう。

しかし勤務評定は人事管理の基礎となるべき資料であつて、これに基いて勤務条件が定められることはあつても、それ自体としては地公法四六条、五五条にいう勤務条件ではないから、行政措置要求の対象とならず、また団体交渉の目的となるものでもない。従つて控訴人が都教組と十数回にわたつてした話合いは団体交渉としてではなく、事実上意見交換・質疑応答・釈明説得等を重ねることによつて理解を深めようとする試みであつたから、この話合いが決裂し、都教組側の反対が解消しないとしても、控訴人としてはすでに法律できまつており、全国一斉実施の趨勢にあつた勤務評定規則の制定・実施を中止しなければならない筋合ではない。従つてこれを阻止するという争議目的は必らずしも被控訴人らの行動の責任を軽からしめるものではない。それが実質的には単なる抗議ないし反対意思表明であるとしても同様である。

またその内容においての反対理由の一つである評価基準の客観化の問題は、教員だけに関するものではなく、創造的な作業を要する職務全般に通ずる問題であり、教員だけを特殊扱いにする具体的理由に乏しい上、控訴人のとつた評価実施の内容である全国試案を基礎としたものも、当時としては、相当に客観的な基準であり、しかも従前事実上なされていたと信ぜられる無方式の大まかな評価方法にくらべれば格段の相違というべきであつて、もしその後に評価に関する理論的研究と実施経験等から改善すべき点が見られる場合にはその時に改善することによつても客観性が担保されるものといえる。また、個別的評価の客観化の問題は、前記のように、勤務評価自体の目的としているところで、同規則、実施要領では、異なる監督者の目からみた継続的観察によつて担保しようとしているのであり、その方法も肯認することができる。次に、勤務評定の本人への開示及び不服申立権の保障の問題は、当該本人を不利益から事前に守るための一種のデユー・プロセスとして合理性が認められないこともないが、その反面自己評価を前提とするため評価の主観化を招く点で評価基準の客観化の要請と矛盾し、人事の秘密保持の点からも難色があるものであり、人事管理上は、その評価を使用して決められた具体的な不利益処分について本人の不服申立権を保障すれば足りるところ、地方公務員については地公法四九条の二にその規定があり、法制度としてはこれで足り、それ以上に本人に積極的な利益を保障することを求めることはできない。その他の勤務評定反対の論拠として、当審における証人大田堯の証言によると、すし詰学級解消など教育条件の整備をしないで勤務評定をするのは順序が逆であること、教員の資質は勤務評定によつてではなく自主的研修で高められるから自主的研修制度の確立こそ急務であることなどを挙げていることが認められる。しかし、教育条件の物的整備と勤務評定のいずれを先にするかの論点は問題の次元が異なり、その選択は政治的配慮に基づくものであるから、これを職員団体が取上げることは政治行為の禁止(地公法三六条)にふれるおそれがあつて、この根拠は援用できるものではなく、自主的研修の問題は勤務評定と制度目的を異にし必らずしもこれと矛盾するものでなく、反対の論拠としては十分ではない。

控訴人が権力による教師の支配統制を徹底する政治目的を有し、組合を支配し分断する手段に使うために勤務評定規則を制定実施したとする被控訴人ら主張については、当時被控訴人らがその点の危機感をいだいたことは察しうるとしても、客観的な事実としてはこれを認めうべき的確な証拠はない。

以上のとおりであるから、勤務評定規則の制定・実施はその時期及び内容において被控訴人らの納得しがたいものがあつたとしても、これ自体を一の害悪とすることはできないものというべきであつて、従つてこれを阻止し、若しくはこれに抗議するためにした本件争議行為等を、その目的の故に正当視することはできず、その行為の責任を過少評価することも相当でないといわなければならない。

(二) 本件争議行為の規模、態様

本件争議行為は、都教組傘下の組合員たる公立小・中学校教員約三万名が結束して一斉休暇を名として全一日学校授業を放棄したものにかかり、参加人員の比率は全教員の数に対して約八一パーセント、参加校の比率は八八パーセントにのぼるものであつたことは前認定のとおりであり、その組織率・動員率からしても、全一日の休暇戦術としても、空前のものであり、本件の前後を通じてなされた全国のこの種闘争中最大のものであつたといえる。従つてその控訴人をはじめ当局側に与えた衝撃は甚大なものがあり、その社会的反響も少なくなかつたことは容易に推認しうるところであり、世論を喚起し問題を提起した効果はともかく、行動規模の面からの責任は決して看過しうべきものではない。

(三) 本件争議行為の影響

右のとおりの規模・態様によつてなされた本件争議行為が、学校授業の放棄、教育現場からの離脱として、本来の公務たる公立小・中学校における学校教育に与えた影響ははかり知れないものがあることは到底否定できないところである。

被控訴人らは、本件争議行為は、第一学期の初めの一日間行われたのにすぎないので、それによる教育の遅れは第一学期の終りころまでには容易に取戻し、特別の支障もなく所定の教育計画を完遂でき、住民全体の共同の利益を害さなかつたものであり、また、争議にあたりあらかじめ児童生徒にプリントを配布して家庭学習に備え、職場離脱の上集会に参加する争議形態をとつて、児童生徒とのトラブルはもとより父兄に心配をかけるようなことは何もなかつたから、本件争議が教育に及ぼした影響は軽微であると主張する。

しかし、本件争議による教育の一日の遅れの回復が容易に実現されたとの被控訴人ら主張を認められる的確な証拠がないばかりでなく、教育は物品の生産ではなく、特に成長期にある児童・生徒に対する教育はその身心の発達に即応し、時々刻々の触発を積み重ねて発展形成されるもので、一日のくりかえしもないところに特色があるのであるから、一日の欠落を他の時間をもつて補充することは本来的に教育に親しまないのである。特に知的教育に重点をおき進度の遅れの回復だけで教育計画を支障なく完遂できたとするのは、教育の一面だけを強調して他の面をかえりみないものであり、児童・生徒の教育が人格の開発をめざして全的に行なわれることを軽視する点で失当であり、その他の点でも本件争議が教育に及ぼした影響が軽微であつたとの主張事実を認められる的確な証拠はない。そればかりでなく、当審における証人斑目文雄、同南出静男、同保谷喜平、同倉田宏蔵の各証言を総合すると、次の事実が認められる。

(1) 小・中学校の児童生徒の教育は、主として知育、徳育、体育の総合の上にされるべきものと一般に理解されているが、本件争議による知的教育の進度の遅れは或程度生じ、各学校とも種々の工夫をして第一学期末ころまでにはほぼその遅れを取戻した。しかし、そのために、午後四時までの授業時間を午後四時三〇分まで延長し、進度の進んだ教科の時間を遅れた教科の時間に振替え、夏期休暇に入る前に補習授業を行うなど時間的に考慮し、または、その教科の所定時間内で能率を上げて進度予定内容を消化するなどの方法によつたものであつて、いずれの場合も、児童生徒に対し、本件争議がなかつた場合より以上の時間的労力的能率的な負担を課する結果になり、これによつて漸く回復できた。

(2) 徳育の面からみると、本件争議当日に行なうことができたであろう徳育の機会を逸し、また、校長など管理者が児童生徒に対し当日の出校を命じているのに担任教員が休校家庭学習を命ずるなど、児童生徒に、命令抵触を露呈して判断の帰趨を迷わせ、惹いて規律の尊重という平素の教育に反し、その徳育上悪影響を与えた。

(3) 本件争議当日児童生徒が出校した相当数の学校があり、そこでは、大多数の教員が本件争議に参加し不在のため、児童生徒の安全管理が行屈かず、不測の事態に発展するおそれが多分にあつた。

(4) 担任教員はあらかじめ児童生徒にプリントを配布し家庭学習に備える方法をとつたところが多かつたが、そのその方法は、知的教育の面だけからみても、自己の思考の誤りをより多くの他の者の思考との対比の中で発見し自己の力で学習に参加し成長させるとの方法に欠け、授業に代えることはできないものである。

(5) 本件争議行為は、教育効果の点でも、適法に臨時休校することのある場合たとえばインフルエンザ休校などと比べ、何故休校にするのか説明できないか極めて困難であり、そのため児童生徒に無用の不安と理解不能による情緒の混乱を生じさせ、或いは教師への信頼関係を阻害する結果を生じさせた。

以上のとおり認定することができ、これを左右する証拠はない。

右認定事実によると、本件争議行為が教育に及ぼした影響は小さいとはいえず、この点において、児童生徒を含む地方自治体住民の共同の利益を害したもので、その程度も決して低いものとはいえない。この点の前記被控訴人ら主張は失当である。

(四) 本件争議行為の違法性の程度と従来の場合との均衡

被控訴人らは、本件争議がその違法性において存在しないか、存在するとしても軽微で懲戒処分をすることが妥当とされない事情があり、また従来の争議行為について制裁を加えられなかつたことと比較し著しく公平を失し不当であるという。

しかし、本件争議が違法であることは前述のとおりであり、その違法の程度は決して低いものとはいえない。そして、本件争議の規模は、前記引用の原判決認定事実のとおり、都下の全域にわたる公立小・中学校の児童生徒約一三九万名とその父兄である都民に対して行われたもので、教職員総数三万八、〇八七名のうち本件争議に参加したものは三万〇、九九三名、81.3%に達し、広範かつ大量の争議参加者による争議行為であり、争議の時間も従前の公務員の争議としては前例のない全一日に及ぶ職務放棄という重大な結果を生じさせたものである。そして、被控訴人ら(但し、被控訴人相沢憲悟、同戸取大吉郎を除く)は、いずれも都教組の執行委員長、執行副委員長、書記長、書記次長、執行委員、財政部長、或いは戦術委員会委員、斗争委員会委員、各支部執行委員長などとして、本件争議の実施を企画、指導または統括指揮をした本件争議行為の責任者であり、被控訴人相沢、同戸取は本件争議行為をあおるなど積極的役割を演じたもので、被控訴人らは、いずれも、前記各説示の事情のもとでは、各相応の懲戒処分を受けてもまたやむをえないものということができる。本件は従前の争議行為とその規模・態様においていちじるしく異なるものであるから、従前の責任と対比して被控訴人らに対する本件懲戒処分が特に過酷であるとするのは相当でない。むしろ被控訴人らは、勤務評定阻止のため、世論喚起のため、使命感をもつて当局のきびしい警告のなかを行政処分、刑事弾圧をも覚悟しつつ(被控訴人ら提出・陳述の昭和五一年三月一八日付準備書面二頁)「かくすればかくなるものと知りながら」(甲第四七号証「勤評闘争十年」はしがき)行動したというのであつて、そこにはいわば犠牲者・殉教者ともいうべきものに類した行動意識があつたものとさえいうべく、結果としての懲戒処分のありうべきことは十分予想しえたものと解されるのであり、被控訴人らはそれぞれその行為に応じ、職場の規律に従つた処分に服さなければならない。この点についての被控訴人らの主張も矢当である。

(五) 以上のとおりであるから、被控訴人らは本件争議行為につき懲戒処分に付されるのもやむをえず、控訴人が各被控訴人に対し、地公法二九条により、本件争議行為を理由に、各懲戒処分に付したことは、合目的な裁量の範囲に属し、裁量権を濫用した場合に該当するものということはできない。

そして被控訴人ら各人に対して停職ないし減給に処した懲戒の内容の選択が特に裁量を誤つたことについては被控訴人らから個別の主張はないが、前認定の各被控訴人ごとの行動その他の情状を総合考慮すれば、これもまた裁量の範囲内にあるものとしてその判断は維持さるべきである。

四むすび

よつて、被控訴人らの本訴請求は失当として棄却を免れないところ、これと異なる原判決は失当で本件控訴は理由があるから、原判決を取消すべく、訴訟費用の負担につき民訴法九六条、八九条、九三条を適用して、主文のとおり判決する。

五第一審原告桑原三郎、同深見清の関係

当裁判所の職権による調査によれば、本件の第一審原告桑原三郎は昭和四三年九月二二日、同深見清は昭和四七年三月一七日いずれも死亡したことが明らかであるところ、本件訴訟は同人らの受けた懲戒処分の取消を求めるもので、その訴訟物は一身専属のものであつて相続の対象とならず、その懲戒(いずれも減給四月)取消を前提とする財産上の請求もなされていない本件では、同人らに関する本件訴訟はその死亡と同時にいずれも終了したものというべく、その訴訟費用の点は民訴法一〇四条により別途に処理すべきであるから、主文において右訴訟終了の旨の宣言をする。

(浅沼武 蕪山厳 高木積夫)

被控訴人目録〈省略〉

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